ありがとう、という言葉のちから

さて今回も母のお話から。

以前に母が要介護の状態になるいきさつに触れた内容をお伝えいたしましたが、母はそういう状態になる以前は「私は自然死の状態で死にたい。全身管をつなげられて延命治療を受けるなんてまっぴらごめんなので病院にも行きたくないし、薬も飲みたくない。」という事を常々言っていたものですから、4年前にピンピンしていた母が急に歩けなくなり急激に認知も進んで意識も朦朧とした感じになり、(とうとう人の寿命というものが訪れてしまったのか)と、このまま何も治療もせずに家の中で私の稚拙な看病だけで死期を迎えてしまっていいのだろうかという葛藤がおこったものでした。ただそんな迷いは一瞬のうちになくなり、「いま全力で助けにいかないと本当に死んでしまうかもしれないし、このまま放置するなんてかわいそうなことができるはずもない。」という思いが勝り病院へ行ったのでした。(結果は即日入院。)

そうして医師の方々の懸命の治療や看護師の皆様やスタッフの方々に支えられてその後も生きながらえる事が出来たのでした。

ただ認知症が快方に向かうことはなく、認知症を遅らせる薬とかいう薬も今では飲ませたりしてます。母はその入院以来急に言葉が少なくなり、テレビを見ていても喜怒哀楽の感情が見られず、決まったドラマを楽しみにして毎回観るなんて様子もありません。食欲は人並みにあるものですから血液検査からみると段々と身体は良くなっていってるのですが、疲れやすいのかテレビをぼーっと観ているなと思ったらものの数分で横になってスヤスヤ眠りだしたりというのが家に居る時の日常です。

 そういう母の姿を見ていると何の楽しみも感じず、しんどい身体とずっと付き合って生きていくことを母の望んでいなかった延命治療をしてしまった事で私が無理強いさせてしまっているという葛藤が再び甦ってきます。主治医の先生は「どうしても助からない患者を無理やり機械で延命措置で生き長らえさせるのを拒否することと、本人が望まないからと言って薬や手術で治る可能性があるのに治療をしない事は意味が違う。私の母の場合は良くなると思って治療をしているのですよ。」と仰って頂けたので自分のしてることが間違いではないと思うことが出来たのでした。

そんな喜怒哀楽をなかなか見せなくなっていた母ですが、飲み物を持って行ってあげたり服を着せてあげたり日々当たり前に手伝っているほんの些細なことでも「ありがとう。」とはっきりした口調で言ってくれます。私はその都度ハッとするような清々しい気持ちになり、私のしていることを肯定してくれたような、また自分も色々出来なくてお世話をかけているけど頑張って生きていくからね、といったメッセージのような気持ちを受け取ることができたのでした。

私もこんな「ありがとう」が言える様な人間になりたいと思ったと同時にやはり人というものは社会に関わって人々に感謝しながら生きていくべきだなと思い直しました。

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